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日中バイリンガル詩吟 第31作『蒹葭』(詩經・國風秦風)

日中バイリンガル詩吟 第31作『蒹葭』(詩經・國風秦風)

 『蒹葭』は、従来、詩意が不明で、目加田誠氏の「水の彼方の人を思う美しい詩」、グラネー氏の「河岸及び河中における恋人の捜索」、朱子の「水辺に隠れ住む賢人を求める詩」などがある。白川静博士は、恋愛感情や賢哲への思慕を表す表現がないことから詩経国風周南の『河廣』と同じく、楚辞九歌に歌われている伝説のように水神祭祀の歌とする。神婚のために出遊する女神を祀る者たちが追跡しながらも、女神が無事に神婚を果たす祭礼で歌われたとしている。
 絶対年代に大きな差がある詩経と万葉集だが、どの民族の歴史においても、古代歌謡がその黎明期に忽然とあらわれ民族の古典となるという共通点からアプローチしていて説得力がある。「歌う」は神に「訴ふ」ことであり、『説文解字』も説明できなかった「歌」の構成要素である「可」の中の「口」は口ではなく神への祈りの言葉を入れる器「サイ」であるとする白川静博士の発見は有名だが、歌謡が神にはたらきかけ、神に祈る言葉に起源していることは理解できる。日本の祭も、船まつりにかぎらず、神輿の巡幸を追うという形式をとっている。そうした点から、楊芬さんの旋律にゴスペル調の伴奏をあてはめてみた。
 現代中国語の歌詞については、楊芬さんは、「湄」méiをmí、「右」yòuをyiǔで歌っている。2018年に90歳で亡くなられた彼女の福建芸術学校時代の恩師であり福州方言や客家方言の吟誦を行ってきた陳炳錚さんの影響だろう。
 和訳歌詞については、解釈上、白川静博士訳を利用したが、「あし草 あし草は蒼々として 白露は霜と結びたり この神にます方は 水のかなたにあらはるる こぎのぼり追はむとすれば 道けはしくてへだたれり こぎゆきて追はむとすれば さながらに川のさ中に あし草は萋々として 白露はなほしとどなり この神にます方は 水のほとりにあらはるる こぎのぼり追はむとすれば 道けはしくてのぼりたり こぎゆきて追はむとすれば さながらに川の中洲に あし草は色づきて 白露はなほ残りたり この神にます方は 水のほとりにあらはるる こぎのぼり追はむとすれば 道けはしくてめぐりたり こぎゆきて追はむとすれば さながらに水のなぎさに」と、どうしても長いもので、旋律にあわせてかなり短縮させていただいた。

中日雙語吟誦 第31作《蒹葭》(詩經·國風秦風)

《蒹葭》歷來詩意不明,有目加田誠的《思念水彼方的戀人》、格拉內的《在河岸及河中尋找戀人》、朱子的《尋找隱藏在水邊的賢人的詩》等。白川靜博士因為沒有表現戀愛感情和對賢哲的思慕的表現,所以和詩經國風周南的《河廣》一樣,像楚辭九歌中所唱的傳說一樣,認為是水神祭祀的歌。祭祀為了神婚而出訪的女神,人們一邊追踪,一邊在女神平安完成神婚的祭禮上唱歌。
絕對年代有很大差別的詩經和萬葉集,無論哪個民族的歷史,古代歌謠在其黎明期突然出現,成為民族的古典,從這一共同點出發的方法很有說服力。日語的“歌(うた)ふ”就是向上帝“訴(うた)ふ”。把《說文解字》也無法解釋的“歌”的構成要素“可”中的“口”,白川靜博士認為;不是口,而是放入對神祈禱的話語的容器“さい”。這是很有名的,可以理解歌謠起源於向神作用、向神祈禱的話語。日本的祭祀活動,不僅是船祭,還採取了追逐神轎巡幸的形式。從這一點看,楊芬的旋律配上了福音的伴奏。
至於現代中文歌詞,楊芬把‘湄’méi和‘右’yòu唱成mí和yiǔ。這似乎是受到2018年以90歲高齡去世的她在福建藝術學校時代的恩師福州方言和客家方言吟詠的陳炳錚的影響。
關於日譯歌詞,在解釋上利用了白川靜博士譯“あし草あし草は蒼々として白露は霜と結びたりこの神にます方は水のかなたにあらはるるこぎのぼり追はむとすれば道けはしくてへだたれりこぎゆきて追はむとすればさながらに川のさ中にあし草は萋々として白露はなほしとどなりこの神にます方は水のほとりにあらはるるこぎのぼり追はむとすれば道けはしくてのぼりたりこぎゆきて追はむとすればさながらに川の中洲にあし草は色づきて白露はなほ殘りたりこの神にます方は水のほとりにあらはるるこぎのぼり追はむとすれば道けはしくてめぐりたりこぎゆきて追はむとすればさながらに水のなぎさに”,無論如何都很長,為了配合旋律我縮短了很多。

日中バイリンガル詩吟 第30作『河廣』(詩經・國風衞風)

 『河廣』は、衛の国から黄河対岸の宋の国にいる人を一途に想う歌です。一途に想う人にとって、黄河は広くないし、宋は遠くないのです。黄河は葦舟で行けるし、宋の国は背伸びすれば見えるじゃないかと考えるのです。一途な思いを、リズムアンドブルースの伴奏に載せてみました。
 今回は、白川静博士訳「河を廣いというが、一葉の舟でわたれます。宋を遠いというが、つまだてば、あれにみえますよ。河を廣いというが、一艘の舟も容れぬほど。宋を遠いというが、朝の間にゆかれますよ。」は、楊芬女史の旋律にあてた伴奏に載せることはできませんでした。自分の訳詞を準備し、それなりのものはできましたが、原点に戻って、白川博士の1990年東洋文庫518『詩経國風』の「あとがき」をもう一度読んでみました。これまで、朗誦を意識した訳で、図書館で目にすることができた目加田誠訳、海音寺潮五郎訳、白川静訳だけを対象にしてきました。しかし、白川静訳があまりに見事にこれまでの3作にあてはまってきたので、他の訳を検討する必要がなかったのです。白川博士はこの「あとがき」で、『詩経』の研究を終生の志業の一つとしてきたことを述べていらっしゃいます。詩経を最初に読んだ大正14年からライフワークとして、国風を1990年に、残り全てを博士88歳の1998年に刊行されました。その間に、発表された他の方の訳本についても触れ、昭和8年の岡田正三訳、昭和32年の目加田誠訳、昭和49年の海音寺潮五郎訳について、コメントされています。
 岡田正三訳に対するコメントが、「論語を経文のように棒読みする音読論者であるこのプラトン哲学の研究者は、このような古典の訳詞にもみごとな才能を示した。古調もよし、また口語訳にもすぐれたものが多く、今も朗誦するに足るものがある。」とありました。私の日中2か国語詩吟も、音読論者に近い考え方なので、なんとか入手したいものと思っていたところ、福井市内のアテネ堂古書店で入手することができました。今回は採用できませんでしたが、確かに朗誦を意識したものがあり、今後も確認していきたいと思います。
 また、目加田誠訳については、数種類の訳本が存在することがわかり、福井市の美山図書館の蔵書で、白川博士が読まれた昭和32年のものに近い、昭和35年のものを目にすることができ、今まで見てきた昭和44年のものとは、違う訳が存在することに気づくことができました。今回の『河廣』は定型詩となっていて、見事に伴奏に載せることができました。今回は、目加田誠訳をそのもま採用させていただきました。
 白川博士は、3人の訳へのコメントのあと、御自分も詩経研究の傍ら御自身の訳も準備してきたことを述べていらっしゃいます。そして、訳本の刊行について触れ、「この書を今になって刊行しようとするのは、一おうはそのようなものを用意して、原詩の正確な理解の上に立って、次に詩才のあるかたが、存分にその訳筆を試みられるのがよかろうと、私なりに考えたからであった。」と述べていらっしゃいます。
 これまでも、若干の修正を加えさせていただきましたが、岡田正三訳や目加田誠訳の複数訳についても見ていこうと思います。

中日雙語吟誦 第30作《河廣》(詩經·國風衞風)

  《河廣》是一首從衛國一心想著黃河對岸宋人的歌。對於一心想著的人來說,黃河不寬,宋朝不遠。他之想黃河可以坐葦船去,宋國祇要伸個懶腰就能看到。我把一心一意的想法刊登在節奏和布魯斯的伴奏上。
這次,白川靜博士譯:“河を廣いというが、一葉の舟でわたれます。宋を遠いというが、つまだてば、あれにみえますよ。河を廣いというが、一艘の舟も容れぬほど。宋を遠いというが、朝の間にゆかれますよ。”不能登在楊芬女史旋律的伴奏上。準備了自己的翻譯詞,雖然完成了相應的東西,但回到原點,再次讀了白川博士1990年東洋文庫518《詩經國風》的《後記》。到目前為止,因為意識到了朗誦,所以只以在圖書館能看到的目加田誠譯、海音寺潮五郎譯、白川靜譯為對象。但是,因為白川靜譯太出色地適用於至今為止的3部作品,所以沒有必要討論其他的翻譯。白川博士在這個“後記”中,敘述了將《詩經》的研究作為終生的志業之一。從最初讀詩經的大正14年開始,作為畢生事業,國風於1990年發行,剩下的全部都是博士88歲的1998年發行的。在此期間,還涉及了其他人的譯本,對昭和8年的岡田正三譯、昭和32年的目加田誠譯、昭和49年的海音寺潮五郎譯進行了評論。
對岡田正三譯的評論是:“這個柏拉圖哲學的研究者,把論語像經文一樣直讀,在這樣的古典譯詞中也表現出了出色的才能。古調也好,口語譯也好,有很多優秀的東西,現在也有值得朗誦的東西。”。我的中日雙語吟誦也有直讀的想法,所以想辦法得到的這本,在福井市內的雅典堂古書店得到了。雖然這次沒能被錄用,但確實有意識到朗誦,今後也想確認一下。
另外,關於目加田誠譯,發現有幾種譯本,在福井市美山圖書館的藏書中,可以看到與白川博士閱讀的昭和32年相近的昭和35年的譯本,發現與至今為止看到的昭和44年的譯本存在著不同的翻譯。他這次《河廣》的翻譯是定型詩,很好地登上了伴奏。這次,目加田誠譯被採用了。
  白川博士在對3人翻譯的評論之後,闡述了自己在詩經研究的同時也準備了自己的翻譯。然後,關於譯本的發行,他說:“之所以現在發行這本書,是因為我自己考慮過,最好是準備好這樣的東西,站在對原詩的正確理解上,然後有詩才的人,可以盡情地嘗試翻譯筆。”。
到目前為止,雖然也進行了一些修改,但我想看看岡田正三譯和目加田誠譯的多個翻譯。